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STONE HENGE Suzuki's blog

ストーンヘンジ鈴木のブログです。

写楽の謎がわかった!

写楽は、人気があったのに、わずか10ヶ月で、覆面作家のまま、消息を絶ってしまいました。

長らくその存在は謎でしたが、きれいにパズルのピースがはまるような説があることを最近知りました。

それは、八丁堀に住んでいた、阿州藩の能役者、斉藤十郎兵衛が東洲斎写楽だった、という説です。
以下が私がおもしろいと思ったパズルのピースです。

●1・・・ 斎藤十郎兵衛という阿波藩お抱えの能役者で、八丁堀地蔵橋に住んでいた人が東洲斎写楽である、
ということを示す資料が1820年以降の文献にいくつかあります。
1820年は斎藤十郎兵衛が亡くなった年です。

●2・・・斉藤十郎兵衛が写楽の場合、なぜ匿名だったのか。
それは、当時寛政の改革で娯楽関係の締め付けがきびしく、身分の区別もちゃんとつけろ、と言われていて、
武士が武士にあるまじきことをしてはいけないと言われていたからです。

能役者は士農工商では武士の身分。同じ役者の歌舞伎役者は、なぜかは疑問ですが、河原乞食と言われるほど下の方。
そのブロマイドとして大衆に人気の浮世絵を描く絵師も決して武士として褒められた仕事ではありません。
それどころか、わかったら幕府からどんなおとがめを受けるかわかったものではない時代だったようです。
そのあたりの空気は、武士の身分で大衆小説の人気作家となった人の末路に表れています。
彼は幕府から呼び出されてしまい、どんなひどい目にあわされるかと恐れたのか、その呼び出しには応じず、
自分で命を断ってしまったそうです。

藤十郎兵衛が写楽だとわかっていた人たちの口が堅かったのも、人の命にかかわる事態だったからでしょう。

●3・・・なぜ10ヶ月で消えてしまったのか。
それは、正体がわかったらまずい、と考えた本人が、仕事を続けることを拒んだのでしょう。
あれだけ似顔絵がうまければ、もともと彼の周辺では人気があったはず。
ご近所に住む蔦屋と縁のある作家(ご近所に蔦屋から本を出していた住人がいたことがわかっています)がその絵を見て、
マチュアにしておくのは惜しいと蔦屋に紹介したのかもしれません。
でも、プロとして目立てば、幕府から目をつけられてしまう。となれば本人が一番困ります。だからすぐに引退したのでしょう。

●4・・・なぜ作風が短い間にどんどん変わったのか。
これは私の仮説ですが、
藤十郎兵衛の写楽は第一期だけだったと思います。
それほど、私には二期以降の作風が同じ人の手によるとは思えないくらい違って見えるからです。
この説はプロの研究家が認めたものではなく、素人の気楽な推測です。

現在、上野の国立博物館で写楽展を開催しています。写楽作品のほとんどが見られる珍しい機会です。
写楽の名が付された浮世絵は四期に分けられています。

第一期が、有名な大首絵。

第二期は、絵は全身像となり、描き方も洗練されています。ここまでは「東洲斎写楽」の名が印刷されています。

第三期は、芝居の背景まで描きこまれ、企画としては新しさを出していますが、そんなに魅力のある絵とは思われていないようです。
     この期から名前は「写楽」のみとなり、「東洲斎」はつかなくなります。

第四期は、私も先日この写楽展を見てきたのですが、この時期のものは印象にも残っていません。どんなだっけ、という感じ。一般の評価も高くないようです。

現在残っている絵の枚数も、後のものになるほど少なくなり、出版枚数が減っていったことが想像できます。つまり、人気がどんどん落ちていったのです。
人気がなくなれば、出版元である蔦屋にとっても商売のうまみが減り、写楽シリーズ終了の決断もやっとついたことでしょう。

写楽の正体にはいろいろな説があり、有名な絵師が名前を伏せて描いた、というのもあります。
二期は、そうではないかと思います。
二期の作品はレベル高いです。急に洗練され、絵もうまくなった印象があります。
しかし写楽の面白さはありません。他の浮世絵師と似た感じに見えます。

もし有名絵師が覆面で描いたなら、なぜわざわざ自分の名を伏せ、東洲斎写楽を名乗ったのでしょう。
それは、有力出版元である蔦屋の頼みだったから、断れなかったのではないでしょうか。
この時期蔦屋は写楽ブランドの作品しか出していないようです。
二期は力のある絵師に写楽を真似て描かせたかもしれません。

第三期になると、有名絵師もそんな仕事は断りたくなったのでしょう。良い作品は自分の名で出したいですよね、きっと。
だから、蔦屋は写楽シリーズを続けるために、新人とか、有名絵師以外の絵師に頼んだかもしれません。
だから、だんだん絵の質が落ちていったのではないでしょうか。

プロブューサーの蔦屋としては、人気ブランドである「写楽」をめったなことではあきらめられません。
だから、新鮮な企画を考え、有名ファッション・メゾンのデザイナー交代劇のように、ブランド名であるデザイナーの名を冠したまま
主任デザイナーを次々交代させ、写楽を引きずれるだけ引きずったのではないでしょうか。

●5・・・なぜ「東洲斎」という名は第二期までしか使われなかったのか。
「とうしゅうさい」は「さいとうじゅう郎兵衛」の名の主な部分をひっくり返して濁点をとったのではないか、と言われています。
また、斎藤十郎兵衛の住む場所は江戸城から見て「東」の中「洲」にあたり、所在地も示しています。
だとしたら、この名前はやばいです。
これは私の仮説(と言っても他の人も言いそう)ですが
写楽が斉藤十郎兵衛なら、写楽と自分との接点を消すために、この名を使わないよう、蔦屋に頼んだのではないでしょうか。
または蔦屋が、この名前の意味がばれた時に十郎兵衛に及ぶ身の危険を考えて、自粛したかもしれません。

●6・・・なぜ「大首絵」を描いたのか。
これは歌舞伎役者の板東三津五郎氏がおっしゃっていたのですが、
昔の歌舞伎小屋は、自然光とロウソクの光しかなかったそうです。
だから、顔なんて薄暗くてよく見えなかったはずだ、と。
また、氏はこうも言っておられました。
昔から歌舞伎では役者の大事な資質は「一に声、二にしぐさ、三に姿」と言われていると。
暗くて顔がよく見えないなら、そういうことになるかもしれませんね。
そして、ここが大事なのですが、氏はこうもおっしゃっていました。
能役者なら、歌舞伎の音響の方のバイトをしていたかもしれない、と。
もしそうなら、大アップで人気役者の顔を見るチャンスがあっただろう、と。
人気役者の大アップは、似顔絵のうまい人なら、描いてみたくなるテーマでしょう。

●7・・・なぜ阿州藩の中では問題にならなかったのか。
今も歌舞伎小屋として高い評価を受ける金毘羅の金丸座は四国にあります。阿州藩も四国。歌舞伎が盛んな土地柄だったのではないでしょうか。
江戸の屋敷に能役者をかかえておくくらいの領主ですから、芸事に目くじらをたてる雰囲気はなかったことでしょう。
むしろ、十郎兵衛が歌舞伎小屋でバイトをして楽屋に出入りし、間近に人気役者を見てきたとしたら、
屋敷の皆が話を聞きたがり、絵を描いて様子を教えてもらいたがったことでしょう。
お殿様だって、知りたがった一人かもしれません。

●8・・・なぜ半世紀後に斉藤十兵衛の名がやっと明かされたか。
本人は亡くなり、寛政の改革は遠い過去の出来事となり、公表しても問題がなくなったからでしょう。

ねっ!結構うまくパズルがはまるでしょ?
上記内容のネタ元は、主にNHKテレビです。
その説のネタ元は内田千鶴子氏。素晴らしい謎ときです。

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みなさぁ〜ん、お願いしまぁ〜す☆、(^o^)/遊びに来てくださぁ〜い♪==> http://stonehenge.ocnk.net/ 
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